なぜ人は「思い込む」のか
おはようございます。大阪市梅田は快晴です。
今日は「思い込み」について書こうと思います。
なぜ、人は「自分の理想世界」を信じ切り、
他人を追い込むのでしょう。
どうして、理想世界に目を輝かせて
「信じる」のでしょう。
また、なぜ人は「連帯」すると、
権力のピラミッド構造ができ、
上下関係をつくり、支配しようとするのか。
「理想世界」の際限なき拡張、
そしてそれに対抗するための思想、
[思い込み]という深い闇の中に埋没していく人たち。
取り組むべき問題は、
環境破壊や資本主義の危機 だけではなく、
〈人間の本質的な部分〉への理解、洞察かもしれません。
人間が 人間に 語りかけるとき、
≪自己陶酔≫という 魔物 に吞み込まれる瞬間 があります。
この魔物には、ストーリー(物語)があり、
その裏側に
「自己保身」「恐れ」「偽り」
「怒り」「嫉妬」「被害妄想」というものがあり、
その表には、
人の情に訴えかけていくというものがあります。
自己陶酔という<魔物>の存在に自ら気付き、
その危うさ、もろさ、愚かさを知ることは、
非常に重要なことかもしれません。
自分の中にいる「魔物」を
どうしたら、少しでもうまく、
飼いならすことができるのか、
そう考え、向き合い、試行錯誤し続ける人と、
安易に物事を信じ、自己中心的になり、
同じ価値観の人と群れ、
「同じ情報源」ばかりに偏る人とでは、
おのずと、学びも生き方も異なってくるでしょう。
人間の脳は、非常に知的ですが、
同じぐらい 脆弱 にできています。
“脳”は それほど強くないので、
日々考えたり、問い続けないと、
すぐに「分かりやすさ」に流されてしまいます。
ある哲学者によると、
人間の「正常」と「異常」は 紙一重 だといいます。
個人で冷静なときには、変だと分かっていても、
状況さえ変われば、簡単に巻き込まれたり、
一瞬で愚かなことをしてしまうのが、
人間の持つ一面でもあります。
その瞬間、人と人との間(ま)がもたらす
幻想に憑依されるかのように
今の時代は、
何でも合理性、
エビデンス主義 の風潮が、非常に強いです。
気候変動でも、コロナ、格差問題、政治と宗教、戦争…
あるいは、
個々の他者に対しても、
映像、音声、AIやデータなどの、
≪科学的実証性≫さえ 依拠 すれば、
「我が主張は正しい」となります。
人間の脳は常に「分かりやすさ」を求めるのでしょう。
脳科学・心理学的に考えますと、
その〈対象〉が何であれ、
【なるほど】というものが 3つ以上 あれば、
[自分の中で、強い説得力] を持ち始め、
あたかも、それが全てをあらわし、
それがあたかも真実かのように
脳は受け取ります。
「脳」は空白に耐えられないので、
つねに「結論」を求めるのでしょう。
分かりやすければ 分かりやすいほど、
自分の中で説得力を持ち始め、
そして、
「好きか、嫌いか」
「合うか、合わないか」
「気に入るか、気に入らないか」という
[感情論]で
結論 が決まってしまいがちです。
今はネット社会ですので、
その[結論]はあっという間に拡散され、
受け取る個々の内側で共鳴し、
「結論」は 野放図に、強化され続け ます。
その論拠となる理由探しには、
人生をもてあますぐらい、
ほぼ無限に、情報が溢れています。
簡単に、悪の所在を見つけ出した と叫び、
「その悪を叩けば 世界はよくなるのだ」
「その悪の所在を 自分は知っているのだ」
という安直さ。
これほど恐ろしいものはありません。
そこには「感情論」から逆算した
何度も通ったレール(思考過程)しかないのに、
潜在意識は「現状維持」を望む せいか、
ともすれば人は簡単に、
自ら強固に築き上げた[思い込み]という
牢獄から出られなくなってしまいます。
しかし、きっとおそらく、
人間はそんなに簡単に、
物事を断定できないはずです。
≪ 安易な正義 ≫ に飛びつくほど、
危ういことはないでしょう。
人間には、<自意識>というものがあります。
<自意識>とは、ある価値判断を下しても、
すぐさまそれに「反対命題」が頭にひらめき、
≪決定的価値≫ を持ち得ないことを意味します。
「絶対に正しいと決断を下した」と思う間もなく、
たちまち、悔恨に責められなければいけない、
そんな不断の動揺に対応するには、
[深く自分と向き合う]精神的な営みが必要になるでしょう。
抑圧された感情、記憶があれば、
それは 無意識に 増幅され、
やり場のない毒素が内側に留まります。
そして自分を、周りを苦しめ、卑しめます。
ある説によると、
人間は 朝起きてから 寝るまでの間に、
約9千回、無意識に「選択」をしているそうです。
人は皆、限られた時間のなかで日々、
〈小さな選択〉を重ねて、生きているのでしょう。
その小さな選択に 気が付いていく ことは、
きっと 人生に大きな違いを もたらすでしょう。
エンパシー(empathy)と
シンパシー(sympathy)という言葉がありますが、
日本語では2つとも、
「共感」と訳されることが多いです。
しかし、両者は全く別物であり、
混同してはいけないと思います。
[エンパシー]とは、
その人の立場であったら
自分はどう感じ、
どう考えるだろう 想像する能力 のことです。
他方、
[シンパシー]は同情や共鳴、
「わかる、わかる」という感覚です。
SNSの「いいね」ボタンに 近いかもしれません。
「シンパシー」は瞬時に沸く感情ですから、
注ぐ対象は
かわいそうな人、
同じような思想を持つ人、
境遇が似ている人など、
どうしても « 限定的 » になります。
一方[エンパシー]は、対象に制限がありません。
たとえ、
かわいそうと思えなくても、
共鳴できなくても、
自分には 分からない環境で 暮らしている他者にも、
『もし自分が、その人の立場であったら』と
想像力を働かせる能力を意味します。
[エンパシー]には、
多角的な視野、柔軟な捉え方や、
この人生を 俯瞰 する力があるでしょう。
同調する「同じ考えを持つ人」とだけ話をしていても、
[エンパシー]は育ちません。
あるいは、
自分に有利な、
納得しやすい≪情報≫にばかり接していても、
「思い込み」という[執着]に、
どんどん 埋没 してしまうでしょう。
エンパシーは、シンパシーよりも奥深い体験であり、
多くのエネルギーを必要とします。
自分にとって分かりやすい、
自分の価値観に合う考え、思いに共鳴するより、
なかなか分かり得ない考え方、
価値観の異なるバックグランドの境遇を
想像し、その思考過程をたどることは、
それほど簡単なことではありません。
難しいことでもありますが、
違う角度から、物事を捉える試みは、
[執着という 魔物 から離れる]ための、
大切なプロセスかもしれません。
人は誰でも、自己保存という欲求を〈本能〉で持ってっているので、
「自分は正しい」と思いたがる生き物です。
いかに俯瞰するか、
どれくらい抽象度を上げていくか、
どれだけ多角的に考え、客観視するかによって
[自分のなかに居座る魔物]への捉え方も
少しずつ変わっていくでしょう。
より深く 自分を知り、相手を知り、
物事の本質 を見極めようとする姿勢が、
魂の学びとなり、
[生きる知恵]になっていくのかもしれませんね。
最後まで読んでくださってどうもありがとうございました。
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