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なぜ人は許せないのか~「正義」という歪み

2021-12-20

おはようございます。大阪市梅田は快晴です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は「なぜ人を許せないのか」について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

イギリスの哲学者で、ノーベル文学賞の

バートランド・ラッセルは著書『幸福論』のなかで、

 

 

  『他人と比較して ものを考える習慣は、

 

   致命的に よくない習慣である』

 

 

と述べています。

 

 

 

 

 

 

よく「他人は他人、自分は自分」

「よそはよそ、うちはうち」

 と言われることも多いでしょう。

 

 

 

 

逆に言えば、それぐらい人間は、

人と比べてしまう生き物」なのでしょう。

 

 

 

 

 

私たちは、〈社会という集団〉の中で生きているので、

 

  本能で

 

他者と比較をしています。

 

 

 

 

時に、それが自分を追い詰め、

悩み苦しみ をもたらしたりもします。

 

 

 

 

  劣等感、疎外感、孤独感、虚無感…

 

 

 

そこからくる 恐怖、怒り、自己否定などもあります。

 

 

 

 

 

 

しかしそもそも、

 

他人と自分を比較する

 

 

 [本来の目的]は

 

 

 

≪ 自己評価のため ≫ だと心理学的に考えられます。

 

 

 

 

 

 

私たちは、往々にして

社会生活に対して「適応」していくことが求められます。

 

 

 

 

 

 

適応的に社会生活を行うためには、

自分の能力やおかれた環境・立場を

「知る」ことが不可欠になります。

 

 

 

 

 

そこで、私たちは、

 

 

 「自分は果たして正しいのか?」

 「自分の能力はどの程度なのか?」

 「自分の価値観は?」

 

 

ということを確認するために、

 

 

 

 

他者という対象〉を心の中で持ち、

 

 

    比較し、

 

 

自分のポジショニングをしています。

 

 

 

 

 

 

 

これは「社会的比較」とよばれるものです。

 

 

 

 

 

 

そして、この社会的比較をするときに、

境遇、考え方、生き方など

 

 自分と”似ている”人を

 無意識に選び、求めています。

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜなら、

 

自分と似た境遇にいる人や、

自分の考え・行動が一致する人といれば、

 

 

 「自分の考えの正当性や妥当性」

  を感じやすくなり、

 

 

一致によって得られる

“安心感”を得ることができるからです。

 

 

 

 

 

 

 

この安心感も、時として、とても重要で、

 

 日常生活をより快適に送りやすくし、

 

  〔新たな挑戦〕もしやすくなるでしょう。

 

 

 

 

 

 

しかし、

 

この他者との比較に 終始 し、

 

同じ考えを持つ人と 同調し続ける と、

 

 

 

  無意識の偏見(思い込み)強化され、

 

 

 

 

  そのなかで”正義”が生まれ、

 

 

 

 

それに合わない人、意にそぐわない人を

 

 

 

 

排斥、否定、攻撃となってしまいがちです。

 

 

 

 

 

これが「許せない」という感情をもたらす

要因にもなるでしょう。

 

 

 

 

 

 

本来は、

「自分の価値観」、「存在そのもの」を

確認するためのはずだった比較が、

 

 

   いつしか 歪んだ優越感になり、

 

 

当人が気づかなければ、

 

 

他者を否定、攻撃することに

なってしまいかねません。

 

 

 

 

 

 

いわば、正義を振りかざし、断罪する

〔 正義中毒 〕になってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

これは他者を否定・攻撃することで、

自分に<優位性>を感じ、快楽を感じる中毒症です。

 

 

 

 

例えば、芸能人や政治家の不祥事や発言に対して

過剰ともいえる反応があります。

 

 

 

 

 

新型コロナウィルスに対しても、

 

捉え方、対応の仕方において、

 

   違う考え方の人を

 

断罪する「正義中毒」も多く見受けられました。

 

 

 

 

社会現象に限らず、

 

 

 家庭、職場、学校でも、

 地域でも、ネット空間でも、

 

 

あらゆるところで、

 

 

そういった《 正義中毒 》は垣間見られます。

 

 

 

 

 

 

人間は、ともすれば 安易に安易に、

流れてしまいがちです。

 

 

 

 

 

 

周りが声高に言う”常識”にとらわれず、

 

 

   その場の”雰囲気”に流されずに、

 

 

「自分なりの解」を求め、

 

 

   問題を<新しい視点>で捉えて

 

 

道を切り開いていくことは、

常に難しいことです。

 

 

 

 

 

集団の中では、少数派になるかもしれませんし、

ともすれば、孤立することもあるかもしれません。

 

 

 

 

 

しかし、

 

自分のエゴから 逃げ続ける と、

 

 

   「思い込みの住人」になってしまいます。

 

 

 

 

 

 常によそ向きの鎧を着て、

 

 

  ”正義の世界”に 埋没 してしまいます。

 

 

 

 

 

 

そうなると« 歪んだ承認欲求 » を他者に向け、

歯止めがかからなくなるのが、

「正義中毒」の危うさだと考えられます。

 

 

 

 

 

何より、

当人は 自分が正しいと思い込んでいる]ので、

非常に厄介です。

 

 

 

 

 

”正論”を振りかざし、

 

 

  その場の[自らの正義]に酔いしれ

 

 

歪んだ快を得ます。

 

 

 

 

 

これは、どんなことにも当てはまるかもしれませんが、

 

 

ある考え方、捉え方を強信することは、

 

 

 

 他者否定になってしまいかねない側面

 

 を合わせ持っています。

 

 

 

 

 

ある思い込みが 強ければ強いほど、

 

 

それに同調しない他者を

 

 

 「許せない」となりがちなのが、

 

 

人間の性(さが)でもあるでしょう。

 

 

 

 

 

 

そこで思い通りにならない現実、

思い通りにならない他者に怒ります。

 

 

 

 

 

そして、そういうタイプの人は、

 

 

  加害者になれなければ、

 

 

自ら被害者になろうとします。

 

 

 

 

 

シーソーのように加害者、被害者を

行ったり来たりすることで、

 

  周りに依存し、執着心を煽り

  周りを巻き込んでいきます。

 

 

 

 

 

 

そのようなエネルギーからうまく距離ををとり、

より生産的な生き方をするには、

何が大切なのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

一つの考え方として、

 

 

「なぜ自分は、

 自分の脳は、

 許せないと思ってしまうのか」を

 

 

 

   知ることこそ 

 

 

 

自分の人生にとって、

ひいては、社会全体にとっても大きなプラスを生むでしょう。

 

 

 

 

 

 

不毛なエネルギーから離れるためにも、

 

 

 

 [脳の仕組み]を知っておくことが

 非常に重要だと考えられます。

 

 

 

 

 

 

もともと人間の脳は、

 

裏切者や、社会のルールから外れた人といった、

 

 

 ≪ わかりやすい攻撃対象 ≫ を見つけ、

 

 

罰することに快感を覚えるように できています。

 

 

 

 

 

他人に「正義の制裁」を加えると、

 

 

 

   脳の快楽中枢が刺激され

 

 

 

快楽物質である「ドーパミン」が放出されるからです。

 

 

 

 

 

これはギャンブル依存、薬物依存、恋愛依存と同じで、

 

 

この快楽にはまってしまうと

簡単に抜け出せなくなってしまい、

 

 

 

  « 罰する対象 » を常に探し求め、

 

 

 

過大な 特権意識 を持ち

人を許せなくなってしまいます。

 

 

 

 

 

…そもそも、

 

 

人間の脳は誰かと対立することが  自然  であり、

 

 

対立するようにもできています。

 

 

 

 

 

 

 

極端にいえば、

 

 

「自分以外は皆愚か者」

「自分以外は全員敵」

 

 

   と考えることも、

 

 

「自分以外は全員優秀」

「自分以外はすべて味方」

 

 

と考えることもほとんど同じことです。

 

 

 

 

 

 

単に、基準の取り方を変えただけです。

 

 

 

 

 

 

どちらが上で、どちらかが下、

 

 

 

どちらが正しくて、どちらが間違い、

 

 

 

 

    そう考え、

 

 

 

    単純化し

 

 

 

    決めつけることで、    

 

 

 

いい気分になったり、落ち込んだりすることは、

 

 

 

 

かなり意味がないことです。

 

 

 

 

 

 

 

当たり前のことですが、

人間はそれぞれ違います。

 

 

 

 

 

 

 

何が違うかといえば、

 

 

一見分かりやすい ことから、

 

  なかなか 分かりにくいことまで、

 

 

 

あらゆることが 微妙に 違っていて

 

 あらゆることが  かなり違っていたりします。

 

 

 

 

 

 

 

人を「間違っている」「正しい」

捉えようとすることは、

 

 

異なっていて当たり前の他人に対して

    [自らの基準]

を無理に当てはめることに過ぎません。

 

 

 

 

 

 

とはいっても、

 

 

 

ささいなことがきっかけで

 

 

  つい誰かを否定したり、疑ってしまったり、

 

 

間違っていると断じてしまうのも

 

 

  人間の性(さが)の一つでしょう。

 

 

 

 

 

 

結局、

 

 

 他人を否定したり、

 他人の言動をあり得ない

 

 

と思うということは

 

 

 

 

「自分の中にも

 その愚かさがあるから」なのでしょう

 

 

 

 

 

 

合わせ鏡みたいなもので、

 

  その対象と 同じだけのもの

 

自分の中にあるのでしょう。

 

 

 

 

 

気が付いていないだけで。。

 

 

 

 

 

 

 

自分が持っているからこそ

 

 

 

 そこに過剰に反応してしまい、

 否定し、レッテルを張り、断罪することで、

 

 

 

 深層心理にある「劣等感」や「恐怖心」から

 

 

 一時的に逃げることができ、

 

 

 

脳に「歪んだ快」をもたらすのでしょう。

 

 

 

 

 

 

人間が持つこういう矛盾に

 

どれほど多くの人が気づき、

どれほどの人が向き合い

どれだけ修正しようとするかは誰も分かり得ません。

 

 

 

 

 

 

きっと、人は「不一致」がゆえに

惹かれ合い、憎しみ合うのでしょう。

 

 

 

 

 

 

今は3組に1組が離婚する時代とも

いわれていますが、

 

 

 

 遠くから見ていたときは、

 

 「不一致」が、かつては

  尊敬や愛情の対象だったのに、

 

 

近寄ってみると目をそむけたくなる

不一致だったと気が付くからかもしれません。

 

 

 

 

 

 

そもそも人間は、

自分自身のことですら完全に理解できず、

100%好きになることも難しいものです。

 

 

 

 

 

それが他人となれば、

尚更かもしれません。

 

 

 

 

 

「どんな天才でも、近づけばただの人」

という言葉もありますが、

 

 

これは多くの人が美しいと感じる

富士山と似ているかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

遠くから見ると、山頂は白く山体は青く、

威風堂々とした形で、

周りに遮るものは何一つありません。

 

 

 

 

 

 

独立峰の成層火山であり、

古くから信仰の対象にもなってきた

荘厳なたたずまいをしています。

 

 

 

 

 

 

しかし、実際に富士山に登ってみると、

多過ぎる登山客、大量のごみの散乱など、

あまり見たくない光景が広がっていたりします。

 

 

 

 

 

 

一事が万事、ほどほどの距離感が大切であり、

 

 

 

 もし許せない人がいれば

 許せない心理の「原因」に気づき

 

 

 

魂の成長のためにも

 

 

 

 新しい捉え方

 

 

 

  柔軟性が求められているのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、

 

「他人を許せない心理」の非常に大切な概念、

≪ 集団という特性 ≫について書こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

哺乳類のうち、かなりの種が、

 

 「個体としての虚弱性」をカバーするために、

 

≪集団を形成≫するという方法をとります。

 

 

 

 

 

 

 

特に、人間は、集団形成の特性が顕著であり、

 

ともすれば、

集団主義をとりやすい性質を持っています。

 

 

 

 

 

 

そしてなぜか

こうした別々の集団同士は、

互いに対立しやすくなります。

 

 

 

 

 

 

隣国同士、

職場内での派閥、

近隣同士のトラブル、

家族内でのもめ事、

 

しがらみのある集団同士のいがみ合い、

 

  縄張り争いは、

 

今も昔も頻発しています。

 

 

 

 

 

 

 

それは集団には、

 

 その集団特有の”正義” が生まれるからでしょう。

 

 

 

 

 

 

「集団主義」とは、

その集団がかかげている

正義(理念・信条)とは異なります

 

 

 

 

 

 

集団主義とは

 

 

自分が所属している集団が、

 集団であり続けることこそが正義

 

というものです。

 

 

 

 

 

 

 

これは非常に危ういもので、

 

 

    場合によっては

 

 

倫理観、人としての在り方や、

他者への尊厳、思いやり、

社会的通念

 

 

 を無視、

 

 

吹き飛ばすぐらい

強い優先度」を持ち得ます。

 

 

 

 

 

 

そもそも人は、自分の好みの正義があるから

その集団に属したのではなく、

 

 

  集団の一員であることそのものが、

  生物としての安全性を高め

 

 

生活の効率を高めるために

 

 

有効だから属していることもあります。

 

 

 

 

 

 

 

しかし集団の〈特定の人たち〉にとっては、

 

 

 

   ●集団への「所属」と

 

   ●「集団の存続」

 

 

そのもの

 

 

 

【最優先の目的】となっています。

 

 

 

 

 

 

そうなると、生きがいや、使命感、個人の意思、

  適材適所などは関係なく、

 

 

 

 

   集団への所属と存続 

 

 

 

<最大唯一の至上命題>になります。

 

 

 

 

  本来、「明らかにおかしい、間違っている」と

  多くの人が感じることも、

 

 

その集団内では 「正義」 としてまかり通っていきます

 

 

 

 

 

 

こういう現象は、社会のなかに多く存在し、

 

≪集団心理≫の危うさ、難しさでもあるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

個人レベルでは、

もはや居たくなくなくなった集団に

 

我慢して属さなければいけなくなったり

するケースもあるでしょう。

 

 

 

 

 

 

こういう集団にいると、

 

 

当然 防衛的になるでしょうし、

 

 

  非常に表面的なものが大切になるので、

 

 

 

心の中で違和感や矛盾を感じたり、

 

 

 

知らぬ間にストレスを抱えてしまったりします。

 

 

 

 

 

 

 

[集団主義による同調圧力] というものは、

 

 

 

   その渦中の人からすれば、

 

 

 

集団の存続を脅かすものは全て「悪」になり、

 

集団を守ることそのものが「正義」となります。

 

 

 

 

 

それ以外のこと、それに同調しない者は

優先すべきでない、

排除すべしとなってしまいます。

 

 

 

まさに独裁者の考え方です。

 

 

 

 

それに気が付かず、自分たちの”正義”の基準にそぐわない人を、

 

”正義”を壊す「悪人」として叩く行為に、

を感じるようになってしまうのであれば、

 

もはや生きた屍のようなものでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

己の弱さ、愚かさに気が付かないとすれば、

 

    非常に悪質で、

 

他者からエネルギーを奪う生き方になってしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも人間は、

 

集団で生きることに非常に長けた生き物で、

 

    それに 成功 したからこそ、

 

文明を受け継いできた歴史があり、

発展させてきたはずです。

 

 

 

 

 

環境や付き合う人間、身近な人によって、

そして、時代とともに「正義」も変化しています。

 

 

 

 

 

 

種として、組織として

 

 

   ≪健全な発展≫を目指すなら、

 

 

多様性柔軟性俯瞰していく力

 

 

非常に重要だと考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

「正義中毒」にかかった人たちは、

 

  一見すると、それぞれ独自の理論、

 

独自の正義を持っているように見えます

 

 

 

 

 

 

しかし実際は、

 

自分がターゲットにされることを

 

  恐れる気持ちから、

 

”多数派”に流れてる人が多いでしょう。

 

 

 

 

 

 

もし今いる環境が「本質的な正しさ」よりも、

 

「仲間内の正義」を優先する集団なら、

 

しっかりと見極めて、

  心理的に距離をとっていくことが

重要でしょう。

 

 

 

 

 

 

そして何より、

 

自分自身が正義中毒に

 

  なってしまっていないかどうか、

 

自分自身で把握できるようになること

 

 

が重要かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

最終的には、対立ではなく、

 並列で考えていくことでしょう。

 

 

 

 

 

 

あらゆる対立軸から離れる時間を大切にし、

 

 

  何事もフラットに捉える 試み が、

 

 

「多様な価値観」を受け止め、

 

できるだけ多くの人と共有することで、

 

「本来の安心感」が生み出されるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

人間の脳は、自らの内面を観察し、

 

 

   フィードバックを得て、

 

 

自ら 軌道修正  していく能力を持っています。

 

 

 

 

 

常に内面を、潜在意識を、浄化していきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

今日は、

 

「なぜ許せないのか」

「集団による同調」

「正義を振りかざす危うさ」について書いてきましたが

 

 

   他方で、

 

 

<もしも>

 

 あらゆる人が十分に満足し、

 

 何の争いも競争もない

 

 本当に平凡な毎日が続くようになると、

 

 

人間はむしろ、

退化してしまうのではないかとも感じます。

 

 

 

 

 

 

 

全く対立・競争のない状態は

 

  無菌室のようなもので、

 

 

人間に自我(エゴ)というものがあるがゆえに、

 

 

 対立のない世界を絶対視して求めることもまた

 

 非現実的 でしょう。

 

 

 

 

 

 

何の対立も競争もない状態は あり得ないでしょうから、

人類の進化を止めてしまうのであれば、

 

「ある程度の対立、競争」は、

人間に必要な要素になるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

これからも人間はおそらく、

 

   宿命的に 対立を続け、

 

私たち一人ひとりもまた、

 

  そこから無縁ではいられないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

しかしそこにも、

 

 ウィンウィンの関係、

 お互い 切磋琢磨 できる関係を

 

見出すこともできるでしょう。

 

 

 

 

 

 

互いが新たなステージに向かい、

 

 

   消耗するのではなく、

 

 

生産を目指す 競い合いができるように期待したいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後まで読んでくださってどうもありがとうございました。

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